商店街はなぜ滅びるのか

都市デザイン学習会で、課題図書にした本。あずさの片道2時間半で読めるかと思ったが、結局往復の時間を費やす程の手ごたえがあった。
今まで私は、地方商店街の凋落はスーパーマーケット、SC、コンビニの隆盛、大店法廃止などの商業自由化、モータリゼーションによる郊外化などの、経済・流通・交通・都市計画の問題がその理由だと理解していた。本書でもそれらを要因として取り上げてはいるが、根本的な問題として家族形態と就労問題と捉えている点が新鮮だった。
私が通っていた小学校は街中にあったので、当時の名簿の親の職業欄には「自営業」の文字が多くあった。「自営業」とは商店街の店に他ならない。果たして現在はどうかと言うと、恐らく「会社員」が殆どだろうし、若者たちの就職先も「会社員」「公務員」といったサラリーマンが殆ど唯一の選択肢で、それに漏れると、フリーター・アルバイターとして働かざるを得ない状況にある。
これは、自由競争主義と商店街の保守化による反発から商店街保護政策を打ち切り、社会保障制度として男性サラリーマンと専業主婦という家族形態を推し進めた政治方針の結果だと論じ、その背景には社会全体が、近代家族の理想像として核家族・男性サラリーマン・専業主婦というステレオタイプを望んだと指摘している。そして(本書では「就労形態における両翼の安定」と呼んでいるが)、グローバルな企業サラリーマンに対して、地方の安定・セーフティーネットとなり得る土着的な就労形態=商店街自営業者、という就労形態の一翼を失ってしまった。即ち、商店街が凋落した根本的な要因は、社会・政治の問題である・・・と言う視点が本書の特徴だと言っても良いだろう。

さて、ここから先をどうするか・・・と言うのが、我々に与えられた命題である。
私が住宅の設計をしていても、2世帯住宅、DINKS、老夫婦、単身、というプログラムが多くなり、かつての「核家族・男性サラリーマン・専業主婦」が理想の家族像という意識は、明らかに変化しつつあるのを感じる。また、ニート・フリーター・非正規雇用が大きな社会問題である様に、サラリーマンが唯一の選択肢であるという現在の就労形態は、明らかに行き詰っている。そして、若者たちの中には中心市街地の空家を安く借りて、洋服のセレクトショップや小さなカフェを始める者達も現れ始めている。家族形態にしろ就労にしろ、まさに転換期にある。
この転換期に、家族・就労・地方の安定などをどの様に捉え、デザインしていくのかの示唆になるのが本書で、そのデザインには地方商店街のあり方が、ひとつの鍵を握っていると考えて良いだろう。

ここで、都市計画・空間・建築的な問題と、この社会的な転換期を重ね合わせて商店街や中心市街地を考えてみたい。多くの資本を持たない若い就労者の出店を可能にする条件として、少ない投資での開業は必須である。本書でも著者が、後継ぎとなる親族が居ない商店を意欲ある若者に継承させる社会的なシステムを挙げているが、都市計画・建築的にも低投資での事業は考える必用がある。具体的には、20坪〜30坪程度の適正規模のスペース、安価で賃借が可能なある程度古い賃貸不動産物件、共益費の負担の無い公共街路に店が面する事、人通りを担保する回遊性と店の集積・・・これらの条件を備えているのは、中心市街地の商店街に他ならない。色々な街で始まりつつある、空家バンク等の試みは、就労問題と中心市街地空洞化の一つの解決策である。店の2階や町家の奥に手頃な居住スペースがあれば、若者にとっては更に好都合だし、中心市街地の夜間人口も増える事になる。ジェイコブスが「アメリカ大都市の死と生」で、「街に古い建物が必要なのは趣があるからという理由だけでは無い。古い建物は家賃が安く色々な人たちが利用可能だからである。」と指摘していたのは、日本の地方都市の現状にそのままあてはまっている。また、新たな建築を計画する際にも、20坪〜30坪単位を念頭において、常に事業者が新陳代謝できるビルディングタイプが相応しい。その際、其々のスペースが直接公共街路にアクセスできる「ダイレクトアクセス」の動線計画が不可欠である。共用エントランスにセキュリティーが掛るオフィスビルやマンションなどは、市街地の活性化に最も相応しくないビルディングタイプだし、デパートやショッピングセンターの管理されたモールでは、自由な新陳代謝は望めない。セキュリティーやモールの管理者に替わるのは、街の住民の相互監視であり顔の見えるお互いの関係である。(これもジェイコブスが40年前に指摘している。)
我々建築家や都市デザインに関わる者たちが、まち並みの美しさ、デザインコードの統一、電柱の地中化、ポケットパーク、コミュニティースペース、趣のある古い建物の保存、等、従来の街づくりに対する概念や手法を見直し、社会的なアプローチにコミット出来なければ、これからの中心市街地を活き活きとした場所にする事は出来ないとあらためて感じた。