マスコミの正義感と身内感覚

お昼の定食屋でテレビのワイドショー。遭難救助で墜落したヘリコプターの取材中に誤って命を落とした記者とカメラマンの報道が延々と流れています。ご冥福をお祈りします。
一方で、夏休み山や海の事故で命を落とす方が大勢いますが、こんなに長い時間を割いて報道はされません。私の感覚では、今回の取材で命を落とした方も、そんな多くの方の一人ですが、マスコミの身内感覚は全く違うようです。この事故を、三次遭難と呼び、正義の為に殉職したようなコメント。お昼のワイドショーならまだしも、公共放送のNHKまでもが、全国ニュースに長い時間を割いて、特別な事故として報道しています。

マスコミが、この事故を三次遭難と呼んでしまう感覚が、私には理解できません。遭難救助に向かう人は、人命を救うという使命の基に、自身を危険にさらして救助に向かいます。そこには、人として社会の一員として、危険を冒しても遭難現場に向かう必要があり、その為に万一命を落としたら、それを殉職と呼ぶのだと理解しています。

しかし、今回の事故は、救助に向かったのではなく、一企業である報道会社のスタッフが、取材に向かって遭難してしまいました。一企業の利益の為に行動して命を落とした方に対して三次遭難とか殉職という呼び方をしてしまう背景には、マスコミ全体に「報道は国民の知る権利を行使する正義で、その為に報道機関は危険を冒しても行動する」という感覚があると考えるしかありません。
勿論、戦争や武力紛争を世界の多くの人が知ることは、それを抑止する原動力になりますから、「報道は国民の知る権利を行使する正義」という論理は成り立つでしょう。しかし、遭難救助で墜落したヘリコプターの取材に対して、「報道は国民の知る権利を行使する正義」という疑念は成り立つとは言い難い。

マスコミが行う取材活動全てを「正義」とし、その為に命を落としてしまった方を三次遭難や殉職と呼び、そして特別な事故として多くの時間を割いて報道する。・・・自分たちを社会の中で特別な存在と思っている、「マスコミの正義感」にはなじめません。
更には、電波やメディアを支配し社会に対する大きな影響力を持つ「マスコミ」が、それが他社の事故であっても「マスコミ・報道機関という同士」「身内感覚」で、特別なニュースバリューを与える事には、滑稽にすら見えます。
・・・「マスコミ・報道機関」って、そんなに偉いの?特別な存在?・・・そういえば、この頃のバラエティー番組も「テレビ業界の内輪受けネタ」ばかりで、ちっとも面白くない。ルーツは一緒「身内感覚」。


尤も、建築家同士の会話にも、「身内感覚」や自分たちを特別だと思っている滑稽なところもあるけれど、電波やメディアで垂れ流したりしないので、まだマシでしょうか(^_^;)