------------------  タウンミーティング 民意の反映


政府主催のタウンミーティングでの、「やらせ発言」が問題になっている。市民の意見を政治に反映させるのが目的のタウンミーティング。同じような「民意の反映」は、現在いたるところで行われている。

私も、かつて、旧市街地のまちづくりワークショップを経験した。主催は地元町内会、市がオブザーバーで、我々建築士会のまちづくり委員は、町内会からのまちづくりの提言を案としてまとめるのが役割だった。出席者は、町内会の役員が主で、その他には比較的自由な時間がとれる高齢者の方、仕事や子育てに忙しい若い世代の出席者は皆無だった。町内会が主催としながら、その実は市が意見を誘導し、市の思惑どおりに意見がまとめられていく。中には、反対の意見も出てくるが、大抵の場合「この様な意見もあった」という形で、議事録の片隅に記録されるだけである。そして、最後に、集約された意見を、我々まちづくり委員が「市民の意見を反映したまちづくりの要望」という形で提案にまとめた。会議を主催する側の思惑で意見がまとめられ、民意の反映とは違ったところにワークショップの目的があるのを、痛切に感じた。ワークショップは「これが地元住民の望む提言です」と言う形をまとめる為の手続きに過ぎないのは、それに参加した多くが感じていたに違いない。少なくとも、私はとても居心地が悪かった。

ワークショップなどの意見交換の場を経て、民意を反映するのが「市民の時代」の行政手法として認知されている。多くの市民が意見できる場は大切であろう。しかし、現実にはそれを逆手にとり、問題の「タウンミーティング」の様に「民意を反映しました」という手続きに利用(悪用)しているケースが多く見受けられ、その根底に「すりかえ」が見えがくれする。為政者が提言したことでも、ワークショップを経て「市民の意見を反映した」とみなせば、行政はそれを市民からの提言であるかのようにすりかえる。更に、ワークショップの参加者が、自らを良識ある市民の代表だと勘違いしてしまうのも恐ろしい。ワークショップは、「ヒトコト言いたい」インテリ市民のガス抜きの場になり、強行反対意見の懐柔にも一役買う。こうなってしまうと、ワークショップは「民意の反映」とは対極の意見封じ込め対策として、有能な行政マンにとっての一石二鳥でスマートな行政手法にしか思えなくなる。

しかも、今話題のタウンミーティングを主催したのは、政府=政治家である。選挙で選ばれ国の舵取りに責任を持って言動すべき政治家までもが、提言の主体をすりかえる手段として、かたちばかりのタウンミーティングで民意のお墨付きを目論んだ。こんな姑息な責任逃れは、選挙で選ばれた政治家がすべきことでは無い。オマケに「やらせ発言問題」では、総理の給与返還でお茶を濁していただかなくて結構だから、この問題に絡んだ全ての国会審議をやり直すのが、当然だろう。
「やらせ発言」は問題外だが、仮にやらせが無かったにしろ、主催者の思惑でまとめられたタウンミーティングやワークショップを経て、その提言が「民意の反映」のお墨付きを得てしまうことが問題だ。「民意の反映」というお墨付きがついてしまうと、それに反論したり、追及することに躊躇してしまう。すりかえや人の言葉で語る政治や行政の態度に、根本的な問題があるように思う。
蛇足だが、私が建築を考える時も、「お墨付き」を得た言葉は使わず、自分の言葉で話すように心掛けている。例えば、「人に優しい建築」あるいは「自然に優しい建築」、そんなお決まりのフレーズは、時代の「お墨付き」を得ているのかの様で、それに異を唱える人は少ない。その建築の内容がどうであろうと「人に優しい建築」「自然に優しい建築」と語った時点で、それを良い建築と錯覚してしまう。この頃の建築を取り巻く媒介を見廻すと、そんな言葉が氾濫し、イメージばかりの耳障りの良い言葉へのすりかえも問題だと思う。